
「シンジ君・・・・・・・どうしたんだい?」
カヲルの声に、シンジははっと我に返る。
「・・・・・・・・あ・・・・?」
まるで、夢でも見ているようだった。
カヲルが鉱物の瞳でシンジを見詰めている。
今まで自分が何をしていたのか思い出せず、
シンジは自分の手をじっと見る。
この手はさっきまでカヲルに掴まれていたはずだ。
けれど、そんな感覚はまるで残ってはいない。
手を掴んだカヲルは、妖しい光りを瞳に湛え
何か問いかけてきていた。
あの時、カヲルは何を自分に尋ねていたのだろう。
「・・・・・・・?」
今のカヲルの瞳とさっきのカヲルの瞳とでは、まるで別人の
ように違って見える。
あれは建物の影が見せた錯覚だろうか。
「大丈夫?疲れたのかい?」
カヲルが心配そうに、シンジを覗き込んだ。
「あ・・・・ううん、そんな事ないよ・・・・」
座り込んでいたシンジは立ち上がると、ズボンについた
泥を叩き落とす。
カヲルはしゃがんだままシンジを見上げた。
普通の少年の顔で。
「僕・・・・もう行かなきゃ・・・・・・」
シンジはカヲルにそう告げる。
僅かでもジャンクを拾って、食料に換えなければならない。
残っている食料は残り少なく、アスカは一人で待っている。
「ジャンクを拾いに行くのかい?」
「うん・・・・もう食べ物が無いんだ。」
「食料・・・・?それなら・・・・・・」
カヲルは立ち上がるとシンジの手を取った。
「え・・・・・カヲル君?」
シンジの手を引きカヲルは路地の奥に進んで行く。
道は更に狭くなり、体の大きな人間は通れないほどだ。
こんな道の先に一体何があるというのだろう。
何度も角を曲がり、カヲルは巨大なビルの裏口の前で立ち止まる。
扉は大きく、そして錆びていた。
とても、二人の力では開きそうにない。
「・・・・・・錆びてるね・・・・・・」
シンジはぽつりと言った。
「大丈夫・・・・・」
カヲルはそう言うと、大きな扉の取っ手に手を掛ける。
すると、扉は何の抵抗もなく易々と開いた。
「・・・・・・・・」
シンジは驚いてカヲルを見詰める。カヲルは振り向くと
得意げに笑ってみせた。
「この辺りは僕の庭だよ、」
二人は暗い扉の中に入った。
そしてカヲルは、錆びた扉をしっかりと閉じる。
大きな音と共に、辺りは闇に包まれた。
あまりの暗さにシンジは目を擦る。何も見えない。
カヲルすら何処にいるのか分からなかった。
「僕の手を放さないで・・・・・迷ったら見つけるのが大変だからね、」
「うん・・・・・・」
シンジはカヲルの手をしっかりと握る。
それを待っていたかのように、カヲルはビルの奥へと入って行く。
シンジの目は暗闇にはまだ馴れず、辺りの物が何も見えない。
それなのにカヲルは全てが見えているかのように、奥へ奥へと
進んでいった。まさにここはカヲルの庭なのだろう。
それとも、カヲルのスピネルの瞳は特別なのだろうか。
やがてシンジの目が闇に馴れ、ぼんやりと周りが見え始める。
先を行くカヲルの銀色の髪が揺れていた。
靴底に感じる剥げた壁、放棄された物達。誇りと黴びた匂いが漂っている。
カヲルが階段を下りた。
シンジはカヲルに手を引かれ、恐る恐る段を降りているというのに
カヲルは滑るように、何処までも階段を下ってゆく。
一体何処へ行くというのだろう。
暗闇の中、どれくらい下っていったのか分からなくなっていた。
いくつもの通路を渡り、そして階段を下る。
また何回かに一度は、昇り階段もあった。
暗がりの中、ひたすらそれを繰り返す。
髄分と大きな建物なのだ。
こんなところで置き去りにされたら、恐らく一人で外に出ることは出来ない。
彼の生きている世界を考えれば、それもありえないことではなかった。
けれど、シンジの手を握るカヲルの手の感触は不思議と安心感を誘う。
もし世界がこの闇だけになったとしても、この手を放さなければ
なんの恐れも無いだろうと思えた。
”どうしてだろう・・・・・・?”
不思議な感覚だ。
カヲルとはまだ二回しか会っていない。
だというのに、何故彼のことをそういうふうに思えるのだろう。
と、カヲルが急に立ち止まる。
シンジは目を凝らした。先は行き止まりだ。
カヲルが振り向いて、微笑んだように見えた。
シンジの手からカヲルの手が離れる。
鍵の差し込むような音がして、扉が開く。
薄い光に照らされている室内。
暗闇の中に長く居た所為で、僅かな光でも眩しい。
目を細め、部屋を確認する。
そこは倉庫のような部屋だった。
何が入っているのか分からないような木箱やダンボールが積まれている。
シンジは頚を巡らせ、部屋の中を観察した。
これだけ物があるというのに、荒されている様子がまるでない。
「こっちだよ、」
再びカヲルはシンジの手を取る。
シンジは導かれるままに付いてゆく。
何処からか騒めきのようなものが聞こえた。
こんな地下で一体何の音だろうか。
進むほど騒めきが大きくなり、何か甘いような匂いがした。
二人は再び扉の前に立った。
今までの扉に比べ、髄分とこじんまりしている。
騒めきはその扉の外から聞こえてくる。
カヲルが扉を開くと、むっとした空気が流れ出てきた。
甘ったるい匂いも一緒に溢れてくる。
「ここは裏口なんだよ、」
部屋の中では男や女達が、思い思いの場所で煙草のような
物を吹かしていた。その煙で室内は白く煙っている。
立ち込める甘い匂いは、その煙の所為らしかった。
シンジは困惑して立ち竦む。
とんでもない処に来てしまった気がした。
そんなシンジの困惑をよそに、
カヲルは再びシンジの手を握ると、部屋を横切ってゆく。
誰も二人には関心を示さなかった。
虚ろな目で宙を見詰めているか、眠っているように瞼を閉じている。
ただ一人、カウンターに座っている少女だけが二人に気が付いたようだった。
俯いていた顔をゆっくりとあげる。
シンジはその少女に、カヲルと同じ特徴を見た。
色素の薄い肌と髪、そしてスピネルの瞳。
「・・・・・・・・・・・」
「レイ、」
レイと呼ばれた少女はじっとシンジを見詰める。
「彼・・・・・・・・・?」
「そう、シンジ君だよ、」
カヲルとレイの間には、二人だけに通じる何かがあるようだった。
レイはそれ以上は何も訪ねることはなく、席を立ち
何も言わず部屋を出ていってしまった。
カヲルは突っ立っているシンジに、カウンターの椅子を進める。
「座ったらいいよ、」
「あ・・・・・うん・・・・・・」
シンジは遠慮がちに椅子に座ると肩越しに、背後の様子を窺う。
トウジから話しは聞いていたが、本物を見たのは初めてだ。
恐らく、トウジも見たことはないだろう。
これがE区のもう一つの顔。
こんな場所がE区には幾つも在る。
シンジは落着かない気分になっていた。
カヲルはカウンターの中の男に何か二言三言、声を掛けると
シンジの隣に座る。
「・・・・・初めて?」
「うん・・・・・・」
「じゃあ、やったことないんだね?」
「・・・・・・・・・」
カウンターの男がカヲルに箱を手渡した。
その箱の中からカヲルは皆が吸っている物を取りだすと、
シンジの目の前に差し出す。
「Dr.FeelGood、・・・・・・効くよ、とても良く。
一口で鳥の様に翔ぶ・・・・・・」
シンジはごくりと唾を飲み込んだ。
今のカヲルの表情は本物だ。
本物のディーラーの顔だ。
シンジはカヲルの指先を見つめたまま、動けなくなった。
恐ろしさも在ったが、好奇心も在った。
翔ぶとは一体どんな感覚なのだろう。
ここに居る人間達は皆、一様に満ち足りた表情をしている。
シンジの掌に汗が滲む。
「・・・・・・ぼ、僕・・・・・・・」
「ふふふ・・・・・無理強いはしないよ、」
カヲルが微笑む。
シンジは肩の力を抜いた。そして、カヲルをじっと見る。
カヲルもあれをヤるのだろうか?
彼がここに居る人間達のようになっているところは想像できない。
「・・・・・・カヲル君は・・・・ヤるの?」
「僕はヤらないよ、・・・・・・こんなものに頼らなくても
ON になれる方法を知っているからね、」
「・・・・・ふうん・・・・・アレ、やっぱり高いんでしょ?」
「まあね、安くは売らないさ。僕のは特別製だから。
でも、Dr.FeelGoodを一度ヤったら他の物はヤれない。
だから、幾ら高くても皆此処へ集まってくる・・・・・」
そして、彼等はそれをヤる為に金を必死にかき集める。
人を陥れてまでも、Dr.FeelGoodを手に入れたがるのだ。
けれど、シンジにはカヲルに言うべき言葉がない。
これは彼の生き方なのだ。
この世界で、正しいものなどは何一つとして無い。
常に自分だけが全てで、正しいのだ。
女がやって来て、二人の前に飲み物が入ったグラスを置いた。
綺麗な翠緑色をしている。
シンジはそのグラスをじっと見詰めた。
こんな処で出てくる飲み物だ。何か妖しいものかもしれない。
「心配ないよ、ただの曹達水のようなものだから、」
カヲルは先にグラスに口を付け、中身が安全な物であることを
シンジに示してみせた。
それを見て、シンジも倣って翠緑色の飲み物を口にした。
”甘い・・・・・・・”
こんなふうに甘いものを口に為たのは、髄分と久し振りだった。
「・・・・・・美味しいかい?」
「うん、甘いものなんて此処のところずっと口にしてなかったし。
とても、美味しい、」
シンジの返事に満足したのか、カヲルは嬉しそうに微笑んだ。
「もっと飲んでゆけばいいよ、こんなものなら幾らでも在る、」
「ええ・・・・・・でも、」
「お金なら心配はいらない、僕はシンジ君がとても気に入っているんだ、」
「・・・・・・・?」
「好きって事だよ、」
「・・・・・・僕たち、まだ会ったばかりなのに、」
「そうだね、何故だろう、」
カヲルは小さく肩を竦める。
シンジはそんなカヲルの様子に思わず笑った。
「でも.....僕もカヲル君の事嫌いじゃない......」
あの闇の中で、安心感を与えてくれたカヲルの手を思い返す。
何処かで、知っているようなそんな感覚。
一体、何処でだったか?
To Be Continued On The Next・・・・・